Story
命から生まれた革に出会うまで
はじめまして。デザイナーの岩井巽(イワイタツミ)と申します。
これまで東北の伝統工芸を中心に、デザイナーとして、数多くの職人さんと製品を手掛けてきました。その経験を活かし、故郷の青森県五戸町(ごのへまち)で、【 五分 】 というブランドを立ち上げます。
ここ青森では、
古くから馬と人とが
互いに支え合って生きてきました。
戦国時代には、武士と共に戦い。江戸時代には、農業や林業のパートナーとして。そして近代に入っても、私たちの祖父母が生きていた時代には、まだ馬が移動手段として活躍していました。
馬が亡くなるとお悔やみの便りが町に配られるほど、家族のように大切な存在として、馬と人は共に暮らしてきたそうです。
しかし経済成長と車の普及により馬に乗る人は少なくなり、「馬の町」と呼ばれてきた五戸町でさえ、今では乗馬体験と馬肉料理だけが、馬に関わる主な産業です。
馬は5000年前から人間が飼育してきた動物です。野生の馬はすでに絶滅しているため、誰かが飼育しないと次の世代に残らないとも言われています。五戸町で馬肉店を営む牧場では、次の世代のため、なるべく多くの馬種を育てているそうです。
「将来的に馬に乗る人が増えたらいいが、今は種を残すために食べて繋ぐしかない。」
馬肉産業だけではなく競馬産業でも、速く走ることができない引退馬の行く末が注目されています。馬を取り巻く状況は複雑ですが、ここ50年でこれだけ社会が発達することは誰しもが予想できず、あらがいようのないことなのかもしれません。
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このような事実を知ったのはつい最近のことですが、僕は幼少期から郷土料理としてあたり前に馬肉を食べて育ちました。祖父母は五戸町でりんご農家を代々営み、暮らしのほとんどが自給自足でした。
祖母は馬肉鍋を、祖父は育てた鶏を絞めた鶏鍋を振る舞ってくれました。自然や動物と人とが近い距離に暮らし、命をいただいた感触は、自分の原体験になりました。
その後は父の転勤で都会で暮らしましたが、田舎とのギャップを感じ、中高時代はあまり学校にいかず、さまざまなものづくりに没頭しました。
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ある時手芸店で材料を探していると、レザー売り場を通りがかります。都会でも感じられる<動物の匂い>にどことなく惹かれ、見よう見まねでレザークラフトを始めたのは18歳の頃です。美術大学に進み、様々な分野のデザインを経験して、10数年ぶりに青森にUターンして気づきました。
「そういえば、馬肉になったあとの皮はどうなっているのだろう?」 「馬肉として美味しくいただいたあとの馬皮を、馬革(レザー)にできるのではないか。」
ふとした思いから商店街の精肉屋に相談し、馬肉になったあとの原皮を譲っていただけることになったのです。
譲っていただける数は、最大でも年間100頭ほど。
決して多くは生まれない、貴重な馬革です。
実は「国産レザー」と呼ばれる日本の革のほとんどは、原皮をヨーロッパ・アメリカ・中国からの輸入しています。海外には日本よりレザー製品のノウハウが蓄積されているため、原皮の品質管理が安定しているそうです。
一方で、国内で食肉される原皮のほとんどはレザーとして活用されず、粉砕されて廃棄されてきました。
日本の皮革の歴史を辿ると、猟師が毛皮を身につけることが主流で、レザー産業が根付き始めたのはここ数十年のことです。青森県内では馬皮を「ねぶた太鼓の膜」として使っていた時期もありましたが、今では太鼓職人が減り活用法が少なくなってしまいました。
そのため、安定した革の加工ルートが確立していない今の日本で、食肉加工所から1頭ずつ原皮を引き取り、手作業で塩蔵するところから取り組んでいます。
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わざわざこれまでと違う方法でレザーをつくることに<意味>があるのかと問われれば、経済的合理性はないのかもしれません。
しかし北国には、精をつけるために獣肉をいただき、毛皮をまとい、時には動物の脂も活かしながら生きてきた文化があります。
小さな集落の中に存在する物だけで暮らしが巡っていた<環境>に学ぶことは多く、未だその生活の名残がある青森から、未来の暮らしに活きる価値観を繋げていきたい。
そして僕たちがこれから取っていく行動によっては、「経済動物」としての馬ではなく、人の「パートナー」としての馬の存在に戻り得る時が来るかもしれません。
五分は馬革をつくるだけではなく、馬の寿命を伸ばす方法や、人と自然の良い関係性を見出すブランドでありたいと考えています。
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青森で育って、命をいただいて。
革になって、また人の手で育っていく。
革は「素材」ではなく、
元は「命」であることを大切にして、
永く続けられるものづくりを手掛けていきます。